死が肌でわかると、本気へと化けるけなげな言い訳たち。
今日も風が冷たい。外に出る理由は、美しい
細かくて精緻な雲の粒子を見上げるためである。
三時過ぎに温かくて甘い飲み物が欲しくなって、
ココアを買いに近くのスーパーまで歩いて出かけた。
耳が痛い。日差しは強い。けれど風は容赦ない。
空は青く空気は澄んでいる。雲の粒子は冷たそう。
ココアを買った。調整ココアに、無調整豆乳を加えてみた。
調整したいのかしたくないのか、どこかおかしい。
矛盾だらけを、面白がって進もう、これからは。
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誰も来ないし、誰もたすけてくれない。待っていても何も巡らない。
悔しがる時間も大事だけれど、死を日に日に意識しはじめる今日この頃。
せいぜい何十年の人生の中で、残りの日々、なにを楽しめるだろう。
死を日に日に意識すると、
「教わらなかったから、わからなかったから、自信がないから、
これまでできなかったから、・・・」それらが、生き抜くために必死で考えた
言い訳だったと肌でわかってくる気がする。
言い訳に代わるものは本気。
どれくらい本気でやらないと、本気でいないと、どのくらいやばいかわかる。
というか、やばさを肌で感じないと、本気のスイッチは入りにくい。
どのくらい体のある時間がのこされているかを感じる。
使い方、楽しむことに自由であることに、忠実でいよう。
長さも深さも、性別も人類も超えていく。
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